第2回 シューズ編~その2
自由奔放でありながら、こなれたおしゃれ感で存在感を放ちまくる唯一無二なファッションと、ゆる~いけれど、独自の哲学に裏打ちされた大人な生き方が男子の憧れ。
そんなノリさんのワードローブから“ド定番”のアイテムをひも解くメンズジョーカーの人気連載を「完全版」としてお届け! また、『メンズジョーカー プレミアム』では、各回のテーマにまつわる「番外編」も!
靴を磨くと思い出す…
嗚呼、青春の帝京サッカー部
【俺のド定番! 番外編①】
――「俺のド定番!」の第1回では〈リーボック〉ポンプ オムニライトとともに〈オージーブライトネス〉という愛用のスニーカークリーナーを紹介してもらいましたが、ノリさんの靴の原点は、やはりスパイクになるんですか?(※1)。
そうね。帝京のサッカー部だった当時は選ぶほど種類はなかったんだけど、〈プーマ〉だ〈アディダス〉だって靴のブランドは、サッカーから入って。ほかに我々の時代は〈アシックス〉に〈ミズノ〉、あと〈ヤスダ〉(※2)ね。靴磨きも、先輩のスパイクを磨いたのが最初かな。2コ上のワセダさん(※3)って、そりゃあもう、うまい先輩がいて。その人のスパイクを磨きたくてしょうがなかった。憧れてたのもあるし、うまい人はスパイクがキレイ(笑)。下手くそはスパイクも汚れてるし、ユニフォームとかジャージィの着こなしもダサいんだ。その点、ワセダさんは着こなしからして違う。とにかく、プレーも何もかもが美しいのよ。よくマネしたな~。
――高校時代は、基本ジャージィだったんですか?
そう。今みたいに生地がよくないから、2回も履くとヒザの飛び出しが戻ってこなくなるような時代のヤツね(笑)。帝京は移動用と試合の用のジャージィが2種類あって。それ着て全員が揃うと、ものすごい威圧感があったみたい。遠征に行くと相手が「わー、帝京来た~っ!」って。
――“バルサ、来た!”的な。
そう、そうそう。こっちは「はいはい、帝京通りますよ~、何か?」ってなもんで、試合をする前から勝ってたよね。
――帝京のユニフォームは、ブラジル代表と同じカナリヤカラーが有名で、ジャージィはブルー系のイメージがあります。
それが当時は、エンジ。で、移動用が黄色に深いグリーンのヤツ。今もウインドブレーカーの上下を持ってるけど、当時はジャージィもユニフォームもブラジル代表が着てた、今はフットサルで有名な〈アスレタ〉のヤツで、移動中の電車では目立ってたね~。さっきのワセダさんの代が優勝して日本一だったから、みんな「帝京だ!」って振り向くの。だから我々サッカー部にとっては、たかがジャージィ、されどジャージィというか。今でもスーツとかセットアップ好きなのは、そのころの影響があるかもしれない。
【注釈】
※1 1977年、同年全国高校サッカー選手権に優勝し、無敵を誇った帝京高校サッカー部に入部。79年には東京都大会決勝に出場(背番号は13)するなど活躍。出場した選手権でも優勝を果たした。
※2 1932年に創業。日本で初めてサッカースパイクを作り、’70年代にはブラジル代表のジャイルジーニョとアドバイザリー契約を結んだ。現在はスポーツウエア中心の展開。スパイクの再発を望むオールドファンは多い。
※3 早稲田一男。傑出した得点能力を武器に、1年からレギュラーとしてか活躍。3年次(77年)には主将として2度目の選手権制覇に導いた。卒業後は、名門・古河電気工業サッカー部(現:ジェフユナイテッド千葉)へ入部。
PROFILE1962年3月9生まれ。東京都出身。帝京高校の同級生・石橋貴明ととんねるずを結成。若者のカリスマ的な存在となり、今も絶大な影響を与え続ける。また’94年から絵画展をスタート。昨年10~11月にはニューヨーク・トライベッカ地区のギャラリーで、自身の芸術活動の集大成ともいえる初の個展を開催。東京・祖師ヶ谷大蔵にある実家の自転車店の名前を冠した「木梨サイクル」では、オリジナル商品やコラボレート商品も展開。
オフィシャルサイトはwww.kinashi-cycle.com
Text:TATSUNORI HASHIMOTO